4月初めに和泉市と和歌山県かつらぎ町を結ぶ鍋谷峠にトンネルが開通した。
これにより和歌山へ抜けるのが30分は早くなったので
学文路(かむろ)から始めるきょうの高野街道歩きは「九度山」まで車で行くことにした。
九度山は大河ドラマ「真田丸」のおかげで観光客が驚異的に増えた。
(数年前、真田庵にいったときなど、まったく人がいなかったのに・・・)
で、ありがたいことに町役場は駐車場を開放してくれていて
終日、無料でここに車を止めておける。
今歩いている高野街道は九度山を通らず学文路なので、ひと駅戻る。
学文路は昔は「香室」と書いたらしい。が、この地に高徳の士が住んでいて
土地の人の学問に力を入れ、読み書きのできない人がいなくなったというので
学文路、と呼ばれるようになったらしい。
今は受験の聖地としても知られているらしいが。
(駅構内にある社)
学文路の駅近くの踏切を越えて坂を登る。
坂道を登ってすぐ「石童丸物語玉屋宿屋跡」がある。
この地に伝わる「石童丸物語」で、高野山は女人禁制なので、
石童丸のお母さんがここで待っていた、というところである。
同じく、空海のお母さんも、高野山へは入れず「九度山」のお寺にいた。
ここに月に9度、空海が会いに来ていたというので「九度山」の名がある。
「慈尊院」は現在も子授け、安産、病気平癒の祈願で多くの人が訪れている。
(有吉佐和子の小説「紀ノ川」にも出てきたように思う)
坂をどんどん上り、やがて「フルーツライン」と呼ばれる大きな道路と交差する。
さらに行くと「大師の硯水」というところがある。
弘法大師が硯の水を求めるとずいぶん遠くに汲みに行ったので
その不便を考え、杖を刺したところ、そこに清水が湧いたという逸話のあるところである。
集落の中に「第4の地蔵」があり、ここを過ぎると急激な下り坂になる。
下りは特に注意して進まなければならないが、周りはきれいな竹林で
そこに咲く連翹の黄色が鮮やかだった。
山道を下ったところが「河根(かね)」という集落らしい。
「丹生(にう)神社」と「日輪寺」。神社とお寺が同じ敷地にある。
河根はもと宿場だったところで「元本陣中屋旅館跡」がある。
集落をすぎると丹生川にかかる「千石橋」があり、ここから「作水」という村に入る。
この千石橋からしばらく急な登り坂があり、そのあとも延々と上りが続く。
考えてみれば、大阪や京都からのここまでの道中、ほとんど高低差がなかった。
紀の川を越え、学文路の駅から急に、海抜800メートルの高野山に向かう上りとなる。
作水坂の急な坂をいったん終えるところに「第5の地蔵」がある。
この横にあった灯篭みたいなもの(ローソク台?)の中に(写真の緑色のもの)
「ご自由にお取りください」といって高野山のガイドブックが置いてあった。
それには高野山にいたるいくつものルートの詳細な案内がかかれていて
マップ、スポット間の所要時間、トイレの箇所など、実にありがたい情報満載だった。
さて、長い長い上りが終わるころ、「最後の仇討」という場所に着いた。
明治6年、仇討禁止令が出されたそうだが、その少し前の明治4年、ここで仇討があったそうだ。
それも赤穂藩がらみの話だという。
赤穂藩は元禄のあの事件以来、どうなったんだったっけ?
ここを過ぎると「神谷(かみや)」という集落に入る。
ここもかつては宿場だったらしいが今はその名残はない。
集落を過ぎると南海高野線の線路の見えるところに来る。
「しんごくらくばし」という古そうな石の橋のむこうに朱塗りの極楽橋がある。
この橋が高野聖域と俗界の結界だそうだ。
きょうはここまで。俗界のまま終わることにしよう。
南海高野線の「極楽橋駅」に着いたのが3時すぎ。
そのころ、難波からの特急が着き、たくさんの人が降りてきてケーブルに向かって行った。
きょうは高野山泊まりなんだろう・・・・うらやまし・・・・
我々を待っている電車は「天空」という極彩色の特別列車で、
外に向いて景色を楽しめるデラックスな座席に座るには指定券を買わなければいけない。
指定券のない者は前2両のフツーの座席で、ギーギーにぎやかなブレーキの音と共に山を下っていく。
きょうは10キロ、約5時間のいつもより短い行程だったが上り下りがあってしんどかった。
しかし、道道にはいろんな種類の桜、ボケ、椿、スイセン、シャクナゲ、など
季節の花が咲き乱れ、しんどさを軽減してくれたように思う。