文楽夏休み公演「新版歌祭文」ーおみつの一日

お染久松を題材にした話は二つあって、
去年の1月は「染模様妹背門松」が上演された。
ただいま文楽劇場でかかっているのは近松半二がかいた「新版歌祭文」のほうである。

だいたい同じ登場人物が出てくるが、この「野崎村の段」は
久松の許婚、おみつと久松の父、久作が中心に書かれている。

ざっとあらすじをかいてみるが
油屋の娘お染と丁稚久松は恋仲となるが、店の者のたくらみにかかり
横領の罪をきせられ、ひとまず、久松は野崎村の実家に戻ることになった。
そこでは父、久作の妻の連れ子のおみつが、今は病の床にある母の看病をしつつ、
許婚の久松といつか一緒になれる日を楽しみにしている。

久作にとっては久松も故あって養子にした子(もとは武家の子)
お光も義理の子、しかし、わが子同然、幸せになってもらいたいと切に願っている。
久松がいったん実家に帰されたのを機に、きょう祝言を上げてここで暮らせ、という。
そこへお染が久松を追って野崎村にきた。
祝言の準備で有頂天になっていたおみつは一気に暗雲に包まれ、
何とかお染を追い返そうとするが、二人は会ってしまい、しかも心中の決意までしている。

それを聞いた久作は必死で説得をし、
ふたりも(言葉上は)納得して、では祝言だ、という段になり
花嫁のはずのおみつが出てくると、髪を切り、尼の姿になっていた。

その一日はおみつにとっては激動の一日だった。
いつもと同じように始まったのに急に久松が帰ってきて祝言の話になった。
日ごろの願いがかなったのも天神様、観音様、一番には親のおかげ。
奥にいる親に手を合わし、いそいそと祝言の準備をする。
幸福の絶頂だった。
ところが、ライバル現れ、それがまあ、この上なく美しく、豪華ないでたち、
自分の許婚である久松をいちずに思っているすてきなおじょうさま。
最初は嫉妬に狂ったものの、二人が死を覚悟しているというのがわかり、
自分にできることは何であろうか?と考えた末、出家を選んだ。
おみつにとってその一日は絶頂と奈落の底を一度に見たような日だった・・・・

芝居に出てくる人たちはたいてい、
人情に厚く、義理堅く、自己犠牲をいとわない。
そして、「人の道」というものを諄々と説いて周りを感動させる。

おみつは出家してまでも二人の命を救いたかった。
しかし、(ここには出てこないが)二人は結局、心中する。
おみつの犠牲はなんだったんだろ・・・・。
(と、物語を知っている人は思う・・・)

(去年一月のときも同じことを言ったが)
お染も久松もおみつも、今でいえばみんなせいぜい中学生から高校生。
(ロミオとジュリエットもそのぐらいだよね?)
子供の恋愛なんだから、まわりの人ももっとほかにしようはなかったのか?
とかおもうが、それではお芝居は成立しない・・・・
そういうもの、なのだ・・・・・

お染を心配して野崎にやってきた大店のおかみ、お勝の提案で
お染は船、久松は駕籠で別々に大阪に帰る。
歌舞伎では両花道を立てて、分かれて離れていく二人を久作とおみつが見送る。
そこは歌舞伎も文楽も音楽の聞かせどころで、にぎやかに盛り上げる。
駕籠屋や船頭のユーモラスな動きと、おみつの心中の対比、という趣向だ。
文楽は船とかごが出てきたところでもうおみつは出てこない。
でも歌舞伎は、船もカゴも見えなくなったところで
「ととさん」といっておみつが泣き崩れるところで終わる。
いくら覚悟の上とはいえ、やっぱり未練があるよなあ・・・・と同情する。

文楽はにぎやかなまま(非情に)終わる。
私は歌舞伎の終わり方の方が好きだが・・・・どうなんだろ?

さて、野崎村のあとは「日本振袖始」という
神話に基づいたスサノウノミコトがヤマタノオロチを退治する、という
舞踊劇かつ立ち回りのたのしいもの。

今年襲名した「織大夫」と人形遣いの吉田玉助がさわやかに見せた。
でも、やまたのおろち、っていうんだから
倹約せず、4つじゃなく、八つのへびでもっと派手にたたかってほしかったなあ・・
なんで4つなんだろ?

織大夫、襲名のときの「合邦」はえらく入れ込みすぎていたが
4月、7月とだんだんよくなってくるね。
今、文楽は中堅の人たちが襲名を経てだんだん高みに向かってきていて
とても充実した時期に入っている。





by nyanko715f | 2018-07-27 14:30 | 落語とか文楽とか | Comments(0)

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